社会人一社目と二社目で一年ずつ働いた感想

注意事項
・長いので、お尻から読むのを推奨します。
・文中で使う形容表現 (例 : 「楽しい」) は全て僕視点を前提にしています。
    僕以外の誰かにとってどうかを意味する意図は全くありません。

 

昔 (大学生の頃) の自分へ

 

いろいろあったけど、今は楽しくやってます。

一つ目の仕事は一年で辞めました。
辞めた理由は、仕事を楽しむことができなかったからです。
二つ目の仕事を始めてほぼ一年が経ちましたが、
こちらはまだ楽しく続けられています。

一つ目の仕事とほぼ同じ期間、二つ目の仕事をやった今なら、
両方の仕事についてある程度客観的に振り返ることができると思うので、
やってみようと思います。

 

一つ目の仕事は、国内外の火力発電所を作る仕事でした。
火力発電所を作るには、たくさんの事柄を考えにいれてプランを練る必要があり、
自分がやっていくはずだった仕事はまさにそのプランを練ることで、重要な仕事でした。

自分は、その仕事の適性は比較的あったと思っています。
考えることは比較的得意な方で、長い時間複雑なことを考えるのも苦ではない方です。
仕事で必要となる知識もある程度は身につけていましたし、
不足している分も、職場の先輩方に教えてもらったり独学したりして補えば、
その分野の第一人者とまでは行かずとも、目の前の仕事をこなすには十分となれそうでした。

また、社会や会社・同僚から求められている仕事でもあったと思います。
仕事の量としては、自分がいた場所は慢性的な人手不足で、

仕事の量に対して人の数が足りず、全員が長い時間残業していました。

その一方で、その仕事には長期間のドメイン知識の訓練が必要なために人員の増員は容易ではなく、新米とはいえ自分も代替えの効かない戦力の一人として数えられていました。

仕事の内容の点でも、自分が書いたプランに沿って実際の発電所の建設が進むため、
手元の仕事にミスがあったり、出来上がりが遅れたりすると、
実際に建設される発電所の故障や、完成の遅延を引き起こします。
発電所の建設というものは、発電所を発注した電力会社からその発電所がうむ電力を使う市井の人々まで、
幅広いステークホルダーが関わる大きなイベントであり、
スケジュールの遅延があるとそれらのステークホルダーに多大な不利益が及びます。
そのため、仕事が多すぎるから断れるわけではなく、
目の前の仕事をこなすだけでも、場所全員の120%の努力が必要な状況でした。
逆に言えば、手を動かせば動かした分だけ、社会や会社に貢献できる、
自己効力感を得やすい職場であったと言えると思います。

加えて、一つ目の仕事は、高校生から大学生にかけて自分が抱いていた
おぼろげなライフプランに沿うものでもありました。
そのライフプランとは、「社会に貢献する。できればエネルギー分野で。」
というものでした。
発電所という受益者の広いインフラを作る仕事は、
まさにこのライフプランに叶うものでしたし、
だからこそ一つ目の仕事として選んだはずでした。

 

でも、僕はこの一つ目の仕事を一年で辞めました。
適性が比較的あり、求められてもいて、ライフプランにも合致しているはずの仕事を、
なんで辞めたんでしょう?

 

理由は、冒頭にも書いた通り、「仕事を楽しめなかった」からです。
より正確には、仕事をする中で、
「今よりもっと楽しく生きることができるはずだ。
    そのためには別の仕事をした方が良いだろう。」
と感じたため、転職を決意したのです。
そしてその決意から一年がたった今、
一年前の決断があっていたかはまだわかりません(死ぬまでわかりません)が、
少なくとも、今年は去年より楽しく生きることができました。

 

今、二つ目の仕事として僕がやっているのはデータを分析する仕事です。
一つ目の仕事に比べ、自分に適性があるという自信は正直ありません。
でも、現職の先輩方に教わったり独学したりして、なんとかやっていけています。
一つ目の仕事に比べ、社会から求められている度合いも劣っていると思います。
データ分析の仕事、中でも今僕がやっている仕事は、
誰かの著しい不利益 (例 : 電力の不足) を解決する類のものというよりは、
すでにある程度うまく回っている経済活動の効率をほんの少し改善する示唆を見つけ、
その示唆による経済効果の一部を対価として受け取るような性質のものです。
そのため、僕の仕事にミスや遅延があっても、
せいぜい達成できたはずの効率化が反故になるだけで、
100が0になるような大きな不利益を誰かが被るわけではありません。
また、一つ目の仕事に比べ、その仕事が会社・同僚から求められている度合いも、正直劣っていると思います。
その理由は、二つ目の仕事の方がスキルセットがポータブルで、
労働力に欠員があっても直ぐに替えが効くからです。
(その裏返しとして、だからこそ自分が今の仕事につけている面もあります。)
そして、一つ目の仕事に比べ、僕の昔のライフプランに沿っていないことも、
ここまで読んでくれたなら納得してもらえるでしょう。

 

ここまで、二つ目の仕事が一つ目の仕事に比べ (楽しさの点で) 劣る理由となりうると、
自分が考える点を列挙してきました。
上記の全てを踏まえてなお、二つ目の仕事の方が、一つ目の仕事よりも僕には楽しいようです。

それは何故なのでしょうか?

 

僕は、その答えを
「仕事が楽しいかどうかはやってみないとわからないので、考えてもムダ」
としたい思います。
仕事が楽しいかどうかは、
上記のようにその仕事のpros & consを列挙して理詰めで考えても分からず、
実際にやってみて楽しいかどうかが全てで、
そうやって知るしかないのだと思います。

 

もちろん、今の仕事が楽しい理由もいくつも思いつきます。
・責任が軽く、try & errorを繰り返して上達できるから楽しいとか、
・仕事の結果が出るまでの期間が短く、PDCAをより高速に回せるから楽しいとか、
・職場が減点主義でなく加点主義だから楽しいとか、
・仕事の負荷が軽く、職場に楽天的・享楽的な人が多いからつられて自分も楽しくなるとか、
・仕事の受益者が遠い異国の市井の人々ではなく目の前のビジネスパーソンだから楽しいとか、
・単純に労働時間が短いから楽しいとか、
・仕事中に音楽を聴けるから楽しいとか、

・総じてよりゲーム的に仕事できるから楽しいとか

......

でも、そもそもこういう風にpros & consを列挙するのがそもそも違うなという考えに至ったわけです。

なぜかというと、上記の全てのpros & consの重みを一貫した基準で評価することができないので、
「楽しいかどうか」の結論を出せっこないからです。

 

僕がここまで長々と書いてきたのは、ひとえに上記を昔の自分に伝えたかったからで、これからも忘れずにいたいと思うからです。

なぜなら、大学生までの自分が上記を知っていれば、
仕事を選ぶ前に (インターンなどで) その仕事を体験してみようとしたはずだし、
その結果、一つ目の仕事として、
より自分が楽しめる (=辞めずにすむ) 仕事を選んでいたはずだと
今は思うからです。

大学生の頃の自分も、真剣に仕事を選びました。
ただ、真剣なのは良かったのですが、選び方が間違っていました。
真剣に「理想の仕事について考える」ことをしたのですがそうではなく、
真剣に「いろんな仕事を試してみる。そして自分が楽しかったかを自分に問う」ことを
やるべきでした。

大学生の頃の自分は、真剣に考えた結果、「責任の大きな仕事」や「社会に貢献する仕事」が
楽しいはずだと真剣な結論を出しました。
でも、それはまさに絵に描いた餅でした。
「責任が大きな仕事」が良いと思っても、インターンでその雰囲気を体験してみることはしませんでした。
「社会に貢献する仕事」が良いと思っても、ボランティアやNPOで体験してみることをしませんでした。
自分が導き出した「理想の仕事」と、実際にやっていて楽しいことのギャップに薄々気づいていても、
前者が正しいのだからと頭でっかちに現実を否定していました。

 

一つ目の仕事を一年で辞めたことで、多くの人に迷惑や心配をかけました。
大学生の頃の自分が違う選択をしていればそれを生まずに済んだのだと思うと、
今でも申し訳ない気持ちになります。

それでも、この一年間、去年より楽しい仕事をできて、僕は幸せでした。
今の仕事も色々リスクはありますがチャンスもあり、
これからの人生を楽しんで生きていけると信じています。

 

これからも、この教訓を忘れないでいようと思います : 
「仕事が楽しいかどうかはやってみないとわからないので、考えてもムダ」

    =「頭でっかちに考えるよりやってみよう。自分の感情に正直でいよう。」

 

最後に、
・過去の自分へ : お疲れさま。たくさん悩んだけど、報われたよ。ありがとう。
・前職でお世話になった方へ : 本当にありがとうございました。ご健勝をお祈りしています。
・これからの自分へ : 前向きに楽しく生きていこう。この素晴らしい人生は君のものだ。

 

 

子どもプログラミングコンテスト 参加メモ

概要

お手伝いしているNPO団体の主催する主催する子どもプログラミングコンテストがあり、自分は運営スタッフの一人として参加した。
自分用にその振り返りなどを書く。

振り返り

コンテストの運営は、NPOのボランティアと、NPOの活動をお手伝い頂い ている自治体の職員の方々で行った。
コンテストのように大きな箱を借りて催し物をするのはNPOとしては初めてであり、運営のベストプラクティス等はない手探りの中で準備を行った。
個人的な振り返りのために、コンテスト全体と自分個人について良かった点と改善できる点を挙げておく。

コンテスト全体

  • 良かった点

    • ゼロからの準備ではあったが無事にコンテストを終えることができた
  • 改善できる点

    • コンテスト前の計画・準備が完全でなかった
      • コンテストの運営経験があるメンバーがいなかったため、運営側としてすべき準備の洗い出しが十分でなかった。
        そのため、催し物の開催経験がある自治体職員の方に頼る面が多くなった...というか自治体職員の方のアドバイスがなかったら完全に瓦解していただろう。
    • 運営スタッフの数が不足していた

自分個人

  • 良かった点

    • 与えられた役割(壇上誘導)を完璧ではないものの最低限はこなすことができた
    • 「走りながら考えて成功した」体験を積むことができた
      • おそらく自分1人ではまず積めない経験だと思う
  • 改善できる点

    • もっと積極性を発揮し、運営をリードできると良かった。
      今回の運営への貢献は与えられた役割を果たすのが主で自分が議論の方向性をリードすることは少なかったが、自分がしなかった分は他の人が担っていたわけなので、もっと自分の存在意義を発揮できると良かった。
    • 段取り・台本の読み込みが不完全だった
    • 壇上でより堂々と行動できると良かった
    • 台本を安定して保持できるクリアファイルを持参すると良かった

君と僕との会話

やぁ、君。どうしたんだい深刻な顔をして。


ねぇ、君は、普段は自分にとって当然だと考えていたことが急に当然でなくなって焦ってしまうことってあるかい?

実は僕は今、とある理由で辛くてちょっとばかし死にたくなっているんだ。だけど、これまでも僕は突発的に死にたくなったことが無いわけじゃあ無い。

けれども、今の僕は死なずに生きていて、ということは過去の僕が死にたくなるたびに死ぬことを選ばず生きることを選んだ理由がなにかあったはずなんだ。僕が生きなければならぬと考え直すほどの立派な理由がね。

で、ひとつ君に助けて欲しいのだけれども、今の僕はその理由がなんだったか忘れてしまってね、困っているんだ。助けてほしい。

生きているべき理由がほしい。生きているべき理由無くして、こんな憂き世を生きていられない。お願いだ。なぜ人は生きていなければならないんだ。納得のいく答えを、僕が忘れてしまった答えを教えてくれ給え。



わかった。では、いきなり結論から言おう。

人が生きていなければならない理由なんてない。そんな理由はひとっつも存在しない。君に取っても、君以外のすべての人にとってもだ。

これで満足したかい?



い…いや、そんなまさか!人が生きるべき理由が無いなどというはずが無い。

それならば、過去の死にたくなった僕たちがひとり残らず死なないことを選び、その結果として僕が存在していることはどう説明するんだい?



その問いに答えるならば、その過去の君たちは皆、生きる事を幸福だと感じたのだということになる。

過去の君たちは、『人は生きていなければならない』というルールがあるために、嫌々生きることを選んだのでは決して無い。自分が生きるかどうかについての二択の権限を完全にその手に持ちながら、これまで二択のうち生きる方のみを選択してきたのだ。ただの一回も、不幸だと感じて死ぬ方を選ぶことをしなかったのだ。ただそれだけのことだ。

この、『自分が生きるかどうかについての二択の権限を完全にその手に持ちながら』というのが今の君が思い出さなくてはいけない重要な点だ。

さっきから聞いていれば君はどうやら、『君が生きるか死ぬか』について、君ではなく君より偉い人の決めたルールがあって、そのルールに従って生きるか死ぬかを決めるという風に考えているようじゃあないか。まったく勘違いも甚だしい。君が生きることを選び続けているからこそ君が存在して、君が存在しているからこそ君以外のすべての他者・ルール・世界が存在し得るんじゃあないか。それだのに、大元の君が生きるかどうかを決めるにあたって、君以外の人の意見を聞こうだなんて、重大な論理の破綻と言わざるをえんね。

もう一度、繰り返して言うけれど、君が生きるかどうかは君が決めるんだ。他人がなんと言おうが知ったことじゃあないんだよ。

だいたい、そもそも君が今死にたいと思っている理由だって、大方、君以外の他人に『こうでなきゃ生きてちゃいかん』みたいなことを言われて、その『こう』の通りに振る舞えない・振舞おうとするのが辛いから生きていたくないと言うのだろう。…どうだ?きっと図星だろう。そうやって、君がどう生きるかを君が選ぶのでは無く、他人に決めてもらおう・他人の言うとおりにして生きていこうと考えているその愚かさが、君が生きるべきかをも他人に決めてもらってしまおうという、さらに一歩進んだ愚かさにつながっているのだ。

分かったか。分かったら、その『どう生きるかを他人の言うとおりにする』という思考を止めろ。そうして、

『どう生きるかは僕の自由だ』

と唱えてみろ。どうだ。死にたい気持ちが薄れてきたんじゃないのか。もう一度だ。もう一度、

『どう生きるかは僕の自由だ。好きに生きていいんだ。』

と唱えてみるんだ

…ふん、あいつめ、すうっと透明に消えてしまいやがった。死にたい気持ちが収まったと見える。まったく手間をかけさせてくれることだ。なんだってこんな当然のことを説明してやらんと分からんのだろうな。

……我ながら愚かすぎて嫌になってしまう。あぁ嫌だ。他人はこんなくだらんことで悩んでなんかいないというのに。あぁ嫌だ。こんなしょうもないことで悩む奴に生きる価値なんてあるんだろうか。あぁ嫌だ…こんな愚かなままなら、いっそ死んでしまいたい……


…やぁ、君。どうしたんだい深刻な顔をして。

2016/9/3

悲観主義は気分によるものであり、楽観主義は意志によるものである
(Emile-Auguste Chartier as Alain)

自分に価値があるかのように、生きることが楽しいかのように振る舞い、思考せねばならない。
悲観的になったら、楽観的になるためにその頭を使えば良い。

イントロダクション

開設のモチベーション

とある人のブログの(主には内省的な)記事が自分にとって面白く、また考えさせられたので

コンテンツ

  • 内省的なこと
    • 考えを言語化してまとめるために
    • 備忘録として

ルール

  • 他人に説明するつもりで簡潔に
  • 過大な時間を使わない
  • 自分の言葉で書く